寝室部屋の中

読み物ではなく記録。脳内ディベート書記blog

すぐ

頭に浮かんできたことをメモしてしまわないと忘れてしまうポンコツ脳だからつらいな

さっきずっと言語化したかったことが浮かんだ気がしたんだけど人様のブログにコメントしているうちに忘れる始末

自分のこと満足にいってないうちは悠長に交流している場合じゃないと思うなど。

誰か助けてと

いつも叫んできた私にできるのは、

誰かたすけてと叫ぶ人に寄り添う一人として生きることかもしれない

誰にも届かなかった叫びを
なかったことにされた叫びを
忘れられてしまいそうな叫びを

怒っても叫んでもね、
誰も聞いてくれないことくらい自分自身で経験済みだ

でもじゃあ、それを受け入れた(というより有耶無耶にされて摩耗して諦めた)人達の
怒りの矛先が自分や見ず知らずの他人に向かって、最終的に悲惨な結末になるのを
同じ時代を生きる一人間として、封じ込めをされた経験のある一仲間として、
一口に「犯罪が悪い」「自殺は自分勝手」

なんか言えやしない

私は小心者が幸か不幸か幸いして、
ただのいつも怒ってる人で済んでいるけれど

戸惑ったこと

つい先日父と、「おばあちゃん(父の母)は、あれだけ食にうるさいけどがんになったし」みたいな話になった。
その時に、ちょっともやっとした


祖母は昔から食にほんとにうるさくて
○○は禁止っていうのは
ポテトチップスあんまり食べちゃだめだとか
そのくらいだったんだけど

良いものを食べなさいってすごくしつこくて
もう子供大人お構いなしに
いかに食が大事かをいつも説いてきて
うんざりしたことも何度目あった

おばあちゃんの言う、良いものって何かって言うと、無農薬、無添加、みたいなもの。

実際おばあちゃん家の食事は
米野菜は無農薬、肉卵は契約農家からお取り寄せ(鶏飼ってたときもあったり)
てなかんじで
食べながら、テレビ見ながら、お友達と話す話題も食食食みたいな人だった

で、そんなおばあちゃんが、二年ほど前まさかの胃ガンになった。
「自然のものを食べてる人は胃がキレイ」「食べるものは大事、食べるものに気を付けれは病気もしない」と、あれだけ豪語していた人が

で、成人後〜何かとおばあちゃんとギクシャクしっぱなしだったのもあり私は、まぁ歳だし病気の一つや2つくらいあっても別に驚く事じゃないでしょ、って思った。冷たい言い方かもしれないけど。

でも、今になって、たとえ身内でもおばあちゃんの食へのおこだわり(北区赤羽風に)のことバカにしたようなこと言ってるのを直接聞くと、少しもやっとした。

「どんな思いでおばあちゃんが野菜育ててりると思ってるのか」なんて、頭の中でもう一人の私が腹を立ててるような気が、したりしなかったり


自分はどこまでも捻くれているんだろうなと自覚した出来事ことの一つだった

優しさの正体、怒りは悪は本当か

優しいことと弱いことは違う。←別記事移行




泣き寝入りすることが、優しいかと言えば、そうでは無いと、私は思う。

確かに傍から見ていても、母にもかなり非はあったにせよ、不倫されてついに精神崩壊し家でした母。その後慰謝料取るでもなく、ダブルワーク、借金までして一人暮らし生活をしていた母を思うと、正義ってなんなのかと思う

正義とか悪とか、そんな白黒つけるなという人って、だいたい罪(とまで言わなくても都合の悪いこと)を見てみぬふりしたい側の人間だったりするからややこしい

実際妹なんかは、普段こそ怒らないタイプだったけど、家族に関する会話の中で「パパを殺す妄想を何度もした」と聞いたときは、普段隠すことなく恨み辛みをぶちまけている私も驚いた。

怒らない人っていうのは、怒るのは悪っていう綺麗すぎる信念の元にそれを忠実に守っているタイプと、表に出さないだけでちゃんと怒りや憎しみの感情をもってるタイプがいるのかなと思った

でも、自分を麻痺させることに慣れると、自分以外の誰かの怒りにも、根拠なく「それは悪だよ」と圧をかけてしまうんじゃないか?と思った



怒って、いいことは一つもなかった

そういうことのほうが多かったけど、
もし、怒っても仕方ないよという場面で
怒らなかったらどうなっていただろう?

自傷行為してツイッターにあげるのがデフォルトになったかもしれない
はたまた動画で飛び込み自殺を配信していたかもしれない

生きてるうちに、女子高生っていうキラキラしていて、未来と希望に満ち溢れてるはずの存在が、飛び込み自殺の生配信をするというリアルを二度も目の当たりにするとは思わなかった(目の前では見ていないが)

自殺する人っていうのは、弱い人じゃなくて怒れない人なんじゃないか?
起こっていいはずの場面で、社会や個人、または集団から抑えつけられて見てみぬふりされた人なんじゃないか?

そう思えてならない

私は今苦しいです、たすけて
折角声を上げて周りに助けを求めても、それを無視されたら、セカンドレイプよろしく二度傷つくのも仕方ない

なら、黙っていよう

それが正しい?ありえない、理解できない

もちろん例外もあるだろうが

本人が苦しいって思ったなら正真正銘苦しいんだろうよ

たすけてとまで言われて、見てみぬふりができる大人の多いことよ



つい最近、人が何かに感情を顕にして怒るとき、自分が大事に思っている「それ」を相手は大事にしてくれない。=自分は大事にされていない というのが大体だろう、と言う記事を読んだ。

今の私にはその気持ちはとてもよく理解できる。

大事にされなかったら怒る
この事の何がおかしいのか?

伝え方を考えろだの、



誰かの為に何かをする事が、優しさとも限らないし、しないことが優しさということもあるのもわかる。

何故優しさについて語ってるのかというと、私は今、あの人は優しくない、普段は優しいけど肝心なときに優しくない、そんなの"本物"の優しい人じゃない
とかなんとか、ある人についてあれこれ考えを巡らせている…というより、頭を悩ませているから。

そこで一つの疑問が浮かんだのだ。
じゃあ、優しくない優しくないと誰かに言っている私は、私自身は、果たしてその誰かにとって優しいだろうか?
はたまた、自分では優しさのつもりが、誰も幸せにならないこともあって、そういう事をしてしまっていないだろうか?とか、仮に何か"してあげる"時に、優しく"してあげてる"なんて思いながらやっているのなら、それも"偽物"の優しさだろうな。とか

何でも、行き過ぎれば毒になるという。
怖いなと思う。
やっている側に、確かに真心があったとしても。

そしてそれ以上に真心がないことはもっと怖いな、と思う。
真心が無いって、どういうことか。
そこに愛がないということじゃないかと思う。
愛がないって、どういうことか。
どこかに「本当はしたくないけど仕方なくやってる」という本音が隠れているということじゃないかと思う。
そしてこれは他でもない私自身のことである。

○○(人)に、○○(事)をすれば、○○(見返り)してくれるはず
という気持ちを持った上での優しさってすごく醜いなと思った。
私ってなんて醜いんだろうなと思った

真心には誰も何も勝てない

だから私はいつもいつも選ばれないし裏切られるし騙されてばかりなんだろうなと。

つまり、自分のしていることが、返ってきているんだろうな


『因果応報、地獄に落ちろ!』
(映画「少女」https://g.co/kgs/VHc9k6のワンシーンの本田翼ちゃんセリフ)

私はよく誰かに向かってこんな風に思ってきた。


でも結果として私は、自分に向かって言っていたことになる。

7万円ベッドの元彼女と精神病の私

まだ出会ったばかりの頃「人間不信なんだ。特に女」と言っていた彼は、私と出会った事によってより一層女不審になる運命となってしまった。
一見すると裏切られた側の私が失ったのは、私を愛していなかった男ただ一人。それのみ。

「人を恨んで生きても自分が辛いだろう」
私にそんな言葉を迷いなく吐いてくる者など、どんな関係性であったにせよその瞬間にただの隣人と化す。

私なら、愛する人が怨むものなら一緒に恨んでみせる。代わりに殴ってきてやろうかと言いたくなる。でも私が愛する人達は私をなだめることにしか注力しない役立たず。
そうかと思えばひょんなことから私の腹の中を知った真の隣人が「あなたはもう楽になって、もっと自分の為に生きてください」なんていう始末。そして何を言ってくれても真の隣人は隣人でしかなく、私は私を愛していないものに執着したままもがき苦しみ、私はほんとに不幸がよく似合うなぁと、今にも床下に溶けていきそうなみじめな表情の自分を見て、ここまでくると誇りだとさえおもった。
自分に嘘をつくくらいなら、いっそ醜い醜いと笑われている方が私にとってはよっぽど正義なのである。